LOGIN録音魔石を再生する日、セレスティアは朝から喉が渇いていた。
水を飲んでも、紅茶を飲んでも、少しも潤った気がしない。 喉が渇いているのではなく、体の内側が乾いているのだと思った。 昨日、薬草保管庫から見つかったもの。 ミレイユの手紙。 薬の処方記録。 ノエルに渡さないで、と書かれた封筒。 そして、録音魔石。 透明な小さな石は、今はリュシアンの書斎の机の上に置かれている。 何も知らない人間が見れば、ただの装飾品のように見えるだろう。 光を受けて、静かに輝いている。 だが、その中に声が入っている。 誰の声か。 ミレイユか。 アルベルトか。 レイモンド伯爵夫人か。 それとも、ジル・サルヴァか。白い聖母像の下に何かが隠されている。 その報告をノエルへ伝えるかどうかで、朝の書斎はまた少し重くなった。 セレスティアは自分の箱を机の端に置いたまま、昨夜の報告書を読み返していた。 軽い木箱。 鍵はない。 まだ業務用と言い張っているが、もう誰も信じていない。 少なくとも家令は信じていない。 昨夜、茶を運んできた若い侍女も、明らかに見ないふりをしていた。 つまり、見ていた。 リュシアンは窓際に立っている。 今朝の顔は、かなり硬い。 ノエル審査なら、おそらく「戻る顔ではありません」と言われるだろう。「顔」 セレスティアが言うと、リュシアンは振り向いた。「まだ何もしていない」「いえ、もう顔が危険です」「顔が危険」「はい」「どう直せばいい」「眉間を少し」 セレスティアは自分の眉間を指差した。 リュシアンは真剣に眉間の力を抜こうとした。 結果、非常に不自然な顔になった。「……戻してください」「駄目なのか」「別の意味で怖いです」「難しいな」「ええ。顔面管理は難しい業務です」「業務か」「閣下も箱を作りますか」「顔用か」「怒り用でも」 リュシアンは少し考えた。 冗談のつもりだったのに、本当に考えている。「検討する」「本当に?」「最近、紙に書くことの有用性を否定できなくなってきた」
アルベルト・レイモンドは、朝食を半分残した。 その報告を聞いたノエルは、少しだけ眉を寄せた。 小部屋の机の上には、三枚の紙が置かれている。『聞きたいこと』『聞きたくないこと』『まだ分からないこと』 最近のノエルは、何かを聞く前に、まずその三枚を見比べる。 聞いていいのか。 聞きたくないのか。 まだ決めなくていいのか。 大人の言葉をそのまま受け取るのではなく、自分の内側に置く場所を探すようになっていた。「お父さまは、半分」 ノエルは小さく繰り返した。「はい」 セレスティアは頷いた。「怒鳴りましたか」「怒鳴っていません」「質問には答えましたか」「今日は、これから答える予定です」「これから?」 ノエルの手が布兎を握る。 布兎の耳には、本物の青いリボンが結ばれている。 昨日、偽物の青いリボンが戻ったあと、ノエルは何度も本物と偽物を見比べた。 本物は布兎へ。 偽物は小さな布袋へ。 どちらも捨てない。 それがノエルの決めたことだった。「お父様は今日、レイモンド伯爵夫人と会います」 セレスティアが言うと、ノエルの顔が固まった。「おばあさまと?」「ええ」「お父さまは、怖がります」「そうね」「泣きますか」 聞いた瞬間、ノエルは自分で首を振った。「違います。聞きたくない紙です」 セレスティアは、静かに待った。
偽物の青いリボンを見たとき、ノエルはまず黙った。 朝の小部屋。 机の上には黄色い袋に包まれた箱。 布兎はノエルの膝の上。 本物の青いリボンは、布兎の耳に結ばれている。 セレスティアが持っているのは、布包みに入った別の青。 本物に似せて作られた、けれど本物ではない青。 ノエルはそのリボンを見て、少し眉を寄せた。「似ています」「ええ」「でも、違います」「そうね」「本物より、少し明るいです」 セレスティアは頷いた。「リュシアン閣下が、まったく同じにはしないほうがいいと」 ノエルはリュシアンを見た。「どうして?」 リュシアンは、少しだけ考えてから答えた。「本物と偽物が、同じ顔をしすぎるのは嫌だった」「リボンに顔はありません」「そうだな」「でも、少し分かります」「そうか」「本物は、布兎のです」「ああ」「偽物は、危ないところへ行く役です」「そうだ」「かわいそうです」 ノエルはぽつりと言った。 セレスティアは胸が痛くなった。 ただの布だ。 そう言うのは簡単だ。 けれど、ノエルにとっては、ただの布ではない。 物にも役目がある。 怖さを預けられたもの、戻る約束を結ばれたもの、誰かに命じられたもの。 それを簡単に捨てたり、使い潰したりすることが、ノエルは苦手なのだ。「戻します」 セレスティアは言った。
白い花に、返事を書くべきか。 ノエルは朝から、そのことで悩んでいた。 白い花そのものは、もう小部屋にはない。 薬師が調べ、監査官が記録し、今は証拠保管庫にしまわれている。 ノエルの部屋にも、食卓にも、廊下にもない。 それでも、花というものは不思議だった。 そこになくても、匂いだけが残るような気がする。 実際には匂わない。 けれど、頭の中で白い花が咲いている。 そういう顔を、ノエルはしていた。 朝食の卵は、三分の一だけ食べた。 スープはよく飲んだ。 硬いパンは、今日はスープに入れない。 机の下では、犬のパンが丸くなっている。 昨日、リナに貸し出されなかったことを知っているのか知らないのか、相変わらずのんきな顔だ。「白い花は、ありがとうって言いますか」 ノエルが突然言った。 スプーンを置き、皿の横の硬いパンを見ながら。 セレスティアはすぐに答えなかった。 リュシアンも紅茶を持つ手を止めた。「おばあさまが、花をくれました」 ノエルは続けた。「花をもらったら、ありがとうって言います」「そう教わりましたか」「はい」「誰に?」「マルタと、お母さまと、おばあさまです」 最後の一つで、声が少し小さくなった。「贈り物をもらったら、ありがとうって言いなさいって」「礼儀としては、そう教わることが多いわね」 セレスティアは言った。「礼儀」「ええ。人と人が、角を立てずにやり取りするための形です」「形」
白い花は、小さな銀の箱に入っていた。 箱そのものは美しい。 白絹を敷いた中に、一輪だけ。 茎を短く切られた、白い花。 花弁は薄く、先が少し丸い。 香りはほとんどない。 毒々しさもない。 だからこそ、嫌だった。 毒があれば分かりやすい。 棘があれば避けやすい。 だが、その花はただ静かに、清らかな顔をして横たわっていた。 セレスティアは銀箱の中を見下ろしながら、胸の奥が冷えるのを感じた。 白。 ミレイユの色遊びでは、嘘の色。 外へ見せる顔。 礼儀正しく整えられた、本音ではない言葉。 その白い花が、ノエル宛ての正式な面会要求に添えられていた。『私は孫娘に直接別れを告げたいだけです』 レイモンド伯爵夫人の文は短かった。 丁寧で、品があり、誰が読んでも「最後に孫へ会いたい祖母」の言葉に見える。 だが、セレスティアにはその文字の下に別の言葉が透けて見えた。 まだ、あの子は使える。 そう言っているように見えた。「薬師の確認では?」 リュシアンが低く尋ねた。 書斎の机には、銀箱、面会要求書、後見局からの転送書類、そして押収品一覧が並んでいる。 朝だというのに、部屋の空気は夜のように重い。 家令が静かに答えた。「花そのものに毒性は確認されておりません。ただし、ごく薄い香料がつけられているとのことです」「香料」 セレスティアは顔を上げた。「甘く苦い匂いですか」「いえ。今回は、ほとんど香りのない清香です。葬儀や別れの挨拶に使われ
夜が明ける前の屋敷は、音が少ない。 けれど、眠ってはいない。 台所では湯が沸き、厩では馬が鼻を鳴らし、廊下では騎士の靴音がいつもより柔らかく響いている。 セレスティアは手袋をはめながら、窓の外を見た。 庭の黄色い花は、まだ夜の色の中に沈んでいる。 朝になれば見える。 けれど今は見えない。 それでも、そこにある。 そう思うことに、最近少し慣れた。「準備はできたか」 扉の外からリュシアンの声がした。「はい」 セレスティアが答えると、彼はすぐには入ってこなかった。「入っていいか」 セレスティアは少し目を瞬かせた。 以前なら、彼は用があれば当然のように入ってきただろう。 少なくとも、扉の外で一拍置くような男ではなかった。「どうぞ」 リュシアンが入ってくる。 黒い外套。 腰に剣。 表情は硬い。 ただし、昨日よりは少し整えようとしているのが分かった。「顔」 セレスティアが言う前に、リュシアンが自分で言った。「戻る顔にしているつもりだ」 セレスティアは一瞬だけ言葉に詰まった。「……努力の跡はあります」「足りないか」「十分かは、ノエルに確認してください」「厳しい審査だな」「ええ。後見局より厳しいかもしれません」 リュシアンは少しだけ口元を動かした。 笑った、のだと思う。 たぶん。 そのまま二人でノエルの部屋へ向かった。







